「未来のノスタルジー」に寄せて
未来のノスタルジー“ジャポニズム”
Nostalgie du Futur “Le Japonisme”
「未来のノスタルジー」に寄せて
満を持して、福井真菜さんの録音「未来のノスタルジー」がリリースされた。福井真菜さんと聞いても、2025年の日本においてすぐにピンと来る方は多くはないのかもしれない。けれども福井真菜さんこそはまさにピアニズムの真髄を究めた、その演奏を聴くべき傑出したピアニストなのである。
収録されたのはドビュッシー、ラヴェル、ブーランジェ、セヴラックなどのフランスものからスクリャービン、シマノフスキ、リゲティ、そして武満徹までのいずれも特有の色彩を持つ作品たち。それが各々コンセプトを掲げた3枚のアルバムとして纏められている。まずアルバム1は「ジャポニズム」としてドビュッシーとラヴェル、アルバム2は「オリエントと日本」としてスクリャービン、ドビュッシー、シマノフスキ、武満徹、アルバム3は「珠玉の小品」としてドビュッシー、リリ・ブーランジェ、セヴラック、リゲティという構成。19世紀から20世紀に至る名作が今、福井真菜さんによって21世紀に新たな生命を吹き込まれたのである。
福井真菜さんは埼玉県に生まれた。音楽家の家庭ではなかったが、真菜さんが3歳のある日、アップライト・ピアノの前に座って離れないことに母が気付く。そこで母は真菜さんを近所のヤマハ音楽教室に通わせた。よくあるパターンではあるが、それが真菜さんのピアニスト人生の端緒となった。
10歳になった真菜さんに、大きな転機が待っていた。近所に住む方から、あるピアニストを紹介すると聞かされ、はるばる横須賀まで訪ねた。そのピアニストこそ日本を代表する大ピアニスト、野島稔だったのである。言われるまま、野島の前でピアノを弾いた真菜さんの母に、後日野島から「ぜひ教えたい」との電話が入った。相手は世界的なピアニストである。母が丁重に断ったのも無理からぬ話。けれども真菜さんは、その後に聴いた野島のラヴェル「鏡」に、言葉にならない衝撃を受けた。「こんな音を出したい、野島先生に習いたい」。
以降、野島の門を叩いた真菜さんは桐朋女子高、桐朋音大に進学、卒業後にフランス留学を決めた。そこには師として仰ぐ野島稔や、作曲技法、フーガと伴奏法、和声法、アナリーゼなどの薫陶を受けた野平一郎などの影響があったことは否めない。
フランスでは、まずパリ国立高等音楽院のジャン・ケルネルにプライベートで師事、17区ドビュッシー音楽院の伴奏科とピアノ科に入学してドゥニ・コンテに師事、2年後に満場一致の第1位で卒業。その後クラマール地方音楽院のピアノ伴奏員として教壇に立ち、シャラントン市にあるアンドレ・ナヴァラ音楽院のピアノ指導員と、2つの学校で後進を指導しながら演奏活動に従事、ソロとしては毎年のリサイタルの他、多数の室内楽のステージに立つ他、現代音楽祭やクールシュヴェール音楽祭などからの招聘も相次いだ。レパートリーで言えば、真菜さんがもっとも心を寄せるのは近現代、なかんずくバルトーク、ストラヴィンスキー、フォーレ、ラヴェル、ドビュッシー、スクリャービン、シマノフスキなど特徴的な言語をもった作曲家たち。フランス国家演奏家資格試験の審査員を務めるほどに周囲から認められ、旺盛な活動をするうち18年が過ぎた。
そして2015年、フランスを後にして帰国。それからは拠点を八ヶ岳を望む地方に移し、東京、長野、山梨を中心にしてソロ、室内楽などをはじめコンテンポラリーダンスや映像とのコラボレーション等、意欲的な演奏活動を続け、高い評価を受けている。
福井真菜さんの演奏は、オーソドックスにして鮮烈だ。作曲家、作品への真摯な対峙は、背景に潜む成立動機や社会情勢までをも俯瞰しながらの深い探究と重なって比類ない説得力を産み出す。また各々の作品についての正統的なアナリーゼからは、作品のキャラクターが実に巧みに描き別けられ、作曲家が込めた真意が明確に浮かび上がる。そしてダイナミックな彫琢はそのままに、肌理細やかで繊細なデリカシーや詩情を纏った展開からは、計り知れない音楽的感興が湧き起るのである。
一例を挙げると、まずドビュッシーが秀抜だ。色彩に対する感覚は鋭敏極まりなく、グラデーションのように変化するタッチは千変万化の表情を生む。まさに芳醇かつデリケートな彩りで織り上げたタペストリーと言えるだろう。ハーフ・タッチやハーフ・ペダルを存分に駆使し、幾重にも広がる奥行きや階層を描きながら、ドビュッシーが楽譜に残した音世界を玄妙に構築していく佇まいは心躍るばかり。「映像第二集」、「前奏曲集」、「アラベスク第1番」、「月の光」など各曲への深々とした共感と鋭敏な感性は言うに及ばず、自らの閃きを瞬間の確信として綴っていくみずみずしいアプローチは、フレンチ・ピアニズムの真髄でもある。ひとつひとつの音、その連なりがこれほどの主張を伴って普遍的な説得力を帯びることに驚愕すら覚える。
続いてはラヴェルである。真菜さんのラヴェルは至って内省的であり、思索的だ。「水の戯れ」や「マ・メール・ロワ」など単に譜読みだけでは得られない高度な分析力と直感的な確信に満ちており、玲瓏な音色と淀みなく流れていく歩みは色彩の精妙な移ろいを携えてイマジネーション豊かなファンタジーを紡ぐ。軽妙さと洒脱な雰囲気が巧みに融合され、輪郭も明晰、揺蕩うような色彩で雄弁に情景を描く。
紙幅の関係で、他の楽曲の各論は割愛するが、真菜さんのピアニズムには特徴的な方向性がある。それは演奏から視覚的な情景が聴くものの眼前に広がることである。そもそも19世紀から20世紀にかけてのフランス音楽は、世界に類を見ない独自性と多様性をもって花開いた。フレンチ・バロック由来のクラヴサン音楽が根強く残る中、サン=サーンスなど古典派的伝統を堅持した方向があり、ロッシーニやドニゼッティ、オーベールなどのオペラ・ブッファが市民に持てはやされた一方で、ドビュッシーやラヴェル、フォーレなどの印象派、象徴派が台頭、さらには新古典派なども登場するなど、まったく風趣を異にする音楽が時を同じくして屹立した状況は世界に例を見ない。即ちフランス音楽の根底にあるのは音楽のみに特化せず、美術や文学をも包括して愉しむ独自の文化なのである。
それはパリで大ブレイクしたサロン文化が媒体となった。貴族や時の文化人たちがこぞって設営したサロンには、多様な芸術家が集い、音楽や絵画を鑑賞したり、文学論を戦わせるなど格別な場として発展を遂げた。ドラクロアやクールベ、ルソー、ミレーらの画家やヴェルレーヌ、マラルメ、ボードレールなどの詩人、スタンダール、モーパッサン、ジャン・コクトーなどの文学者が集い、音楽家もフランス人のみならず、ショパン、リスト、ストラヴィンスキーらが顔を揃えていた。パリが外国人芸術家を受容するキャパシティを有していたことも大きな一因であり、その後も1920年代のバレエ・リュスなどに繋がっていくのだが、即ちそういった総合的な知見と感覚なくして、19世紀のフランスを語ることはできない
フランス人がよく口にする言葉に、「au premier degré」と「au deuxième degré」がある。前者は「文字通りの意味で」、後者は「裏の意味で」という触感らしい。つまりフランス人は、常に物事の奥に隠された何か、本質を探るのが大好きな人種なのであり、常識的な機能性よりも、エレガンス、エスプリなどを重要視する国民性を有しており、音楽にもこの精神が深く関わっているようだ。福井真菜さんは18年間過ごしたフランスでそれを実際に体感し、共感した上ですべてのファクターを融合し、それに自らの個性を加味して語れる数少ない日本人ピアニストなのである。
真菜さんが小学校6年生の時だ。母から「勉強と音楽、どちらの道に進むのか」と問われ、答えたのは「勉強は教えられたことをただ覚える作業。だから死ぬまで答えを探す音楽に進みたい」。
言葉通り真菜さんは、今も、これからも、試行錯誤しながら自らの音楽を追い求めていくに違いない。日本人としてアイデンティティをしっかりと確立し、フランスで過ごした経験を糧としているからこそ、「未来のノスタルジー」で提示した3つのコンセプトが圧倒的な説得力をもって迫ってくる。それは日本とフランスとの文化交流の範疇を凌駕し、音楽という世界原語をもって語り得る人類共通の平和への祈りに通じるものだ。 この音源は、最先端のテクノロジーを駆使して録音されている。それは別項で詳細に触れられると思うが、いずれにしても万華鏡のような色彩が乱舞する福井真菜さんの「未来のノスタルジー」は、常に傍らに置いて聴いていたい垂涎のアイテムである。
真嶋 雄大(音楽評論家)
真嶋 雄大
Yudai Majima
音楽評論家、作・編曲家、プロデューサー

5歳からピアノを、中学から作曲を学ぶ。1973年には《ソプラノと和洋合奏のための変容》を作曲して発表、自ら指揮して注目された。現在、朝日新聞等新聞各紙、「音楽の友」等媒体専門誌をはじめ、コンサートの曲目解説、CDやDVDのライナーノート、また音楽舞台劇の台本等積極的な執筆活動を続けている。NHK-FM「ベスト・オブ・クラシック」、「サンデークラシックワイド」等に出演、案内役を務めると同時に、様々なコンクールの審査員も務めている。
また全国の放送局や音楽ホールなどに招かれ、故中村紘子やS.ブーニンらとのレクチャー・コンサートを行って好評を博すとともに、YCC県民文化ホール「音楽劇コンサート」、東京ベーゼンドルファー・ジャパン「美女と野獣シリーズ」、東京・銀座ヤマハ「真嶋雄大プロデュース・シリーズ」、岡谷カノラホール「はじめてのクラシック・シリーズ」、「クラシック探訪シリーズ」等、各地でコンサートのプロデュースや出演も意欲的に行っている。
著書に「グレン・グールドと32人のピアニスト(PHP研究所)」、「ピアニストの系譜(音楽之友社)」等、監修に「新編ピアノ&ピアニスト(音楽之友社)」等、共著多数。最新作は、芸術家佐藤正明に献呈した「Big AppleのためのFantasy」。
朝日カルチャーセンター新宿、よみうり文化カルチャー八王子、山梨英和大学メイプルカレッジ各講師を歴任。現在、公益社団法人日本演奏連盟専門委員、YCC県民文化ホール・アーティスティック・アドバイザー、富士山河口湖音楽祭アドバイザー、「真嶋雄大の面白クラシック」主宰。